矜持や誇りで生きてはいけないのではないか
小池一夫先生、最近ツイッターで若者にチヤホヤされてて嬉しいのは分かるが、なぜこんな分かりやすいパクツイをしたのだ… https://t.co/8KHHP7QCFf https://t.co/5pRfJe15kO pic.twitter.com/y1l54h9yab
— ジェット・リョー (@ikazombie) 2015, 5月 14
先日、パクツイを指摘した相手を断罪するかのようなツイートを発したことで話題になった小池一夫先生。
もはやパクツイがどうこういう問題ではない。むしろ考えることとしては表題のとおりだ。
ぶっちゃけると「◯◯のためなら他の人のネタをパクることは仕方ないのではないか」だ。
そもそも何故パクツイはここまで減らず、嘘やデマが蔓延するのか。自分なりに考えてみると、そこには
- 面白いから
- そのツイートが本当だと感じたから
- 人気のツイート(パクれば食いついてくる)から
などなど、人によっては考えようも多々ある。
しかし、どれを取っても行き着く先は「人気」に直結する。RTを多くされればされるほど、お気に入り*1をされればされるほどに「面白い人だ」と認知される。
元がわからなければオリジナルと大差ない。
元がわからなければ、あるいは元のあるツイートから書き換えると、さもオリジナルのように見える。そしてオリジナルをよそにRTといいねを稼ぐ。
まるで有名人の名言のように奪われ続ける言葉ではあるが、ふと考えてみると
頑なにルールを守って飢え死にするのと
ルールを破って生きていられること
どちらが正しいのだろうか。
日本的な考え方だと前者が正しいと考えるし、自分もそう考えるフシがある。
「生きて虜囚の辱を受けず」という戦時訓もあったようにルールを破ってまでのうのうと生きることは恥知らずの謗りを受けるからだ。
そこまでして生きている価値はあるのだろうか。
どうなのだろうか。常に考えるものの、答えは見当たらない。
何より、今は社会が平気でルールを破っている時代と考えると、ルールを守り続けて苦しんでいる自分は大馬鹿ではないかとも感じる。
ブラック企業は蔓延し、政治家は公約を守らない。酒を呑んでは運転し、クレーマーによって表現は閉塞的になっていく。
いくら通報してもパクツイは消えず、逆にオリジナルが消されていく。そんな馬鹿なことが何度も起きればうんざりもする。
今朝の「エゴサ(誤用)」についてのツイートhttps://t.co/JZfNm0Ej1R ですが、パクツイを通報したところ、ツイッター社の手違いで私が投稿した元画像のほうが削除されました。昨年から数えてこれで69回目です勘弁してくれ pic.twitter.com/nUnaDuiOMt
— ナカシマ723 (@nakashima723) 2015, 12月 30
そんな社会で頑なにルールを守るメリットとは何なのだろうか。まるで割れた窓のように心はひどく凍えている。
報われない現状を打破するには
ちっぽけなプライドが、パクツイや炎上させるような記事を頑なにためらっているのかもしれない。
一番は厳格な対処だが、それはもう望めない。自分も巻き込まれて消えてしまうだろう。*2
二番は何か、自分が消える。
インターネットから脱却し、人間を恐れながら生きていく。しかし、社会において人間とのつながりはかかせないものだ。生きていく苦しさだとしてもそこは切り離せない。
では三番、正義の為にパクツイした相手に殴りかかる。
これも本末転倒だ。ダークヒーローにでもなったつもりだろうか。結局は追い込むことで自分が孤立してしまう。
四番、何もしない。
本当に何も変わらない。盗まれるのを諦めるしか無い。
五番、自分もパクツイをして人気を得る
変わらないなら自分も和の中で踊ろう。他人の人気に相乗りしてはしゃごう。それで……良くないよな、わからないよ。
……答えが、見つからない。
まとめ
答えが見つからず、かと言って割り切れない現状をどのように打破するのか。もはや答えが見つからず、一人では到底解決できる問題でもない。
これは教育の問題でもあるのかもしれない。インターネットの知的財産について、取り扱いを厳としなかった過去の未熟。それが今につながっているとしたら因果応報といえる。P2Pによる違法ダウンロードは今こそ日の目を見ないが、昔は蔓延してた。その流れはこうして今にも続いている。
悪しき流れはどこかで断ち切らなければならない。
流れを切るには地道な努力が必要なのだろう。パクツイや無断転載は悪であり、文化を破壊する行為であると。
そして、盗んだ相手が報われない土壌を作るほかない。時間はかかるが、薦めなければ20年、30年後も続くだろう。